笛田エース入団物語 -最終話

息子の野球人生が瑞々しく始まるその2ヶ月ほど前。つまり笛田エースの体験に行く2ヶ月ほど前の小学2年12月のある日、息子が「やきゅうやりたい」と言い出した。


「やきゅう」という言葉を発したのはたぶんそれが最初だったと思う。学校の友達に誘われたんだそうだ。


「やきゅうって知ってる?やろうよ!」とせがまれて、家の近くにある広場で文字通り「はじめてのやきゅう」をすることになった。


僕は子どもが生まれても野球をやらせるつもりは無かった。学生時代、指導者や先輩との相性に苦しんでいた僕は、とうの昔に野球から心が離れていた。家族は僕が野球をやっていたことを知らなかった。それまで息子とキャッチボールはおろか、TVで高校野球やプロ野球を見ることもなかった。息子が野球のルールなんか知るわけなかった。


だから息子とやる「はじめてのやきゅう」はオリジナルルールになるのだった。


1塁ベースは木の根っこ。僕がゴムボールを投げて息子が打つ。空振りばかりだけど三振アウトはナシ。「十三振」くらいするとようやくコツを掴んできてバットにボールが当たる。バットにボールが当たれば僕がボールを拾う。ボールを拾うまでに息子のほうが早く"1塁まで到達すれば"セーフ。


あえてエラーする振りして間一髪のプレーにすればそれだけで大興奮だ。


そこから先はただの当てっ子鬼ごっこ。ボールを身体に当てたらアウトだから次の安全地帯に向かって必死に逃げる。いたずらっぽく逃げるのがいたくお気に入りのようで、こちらがワザと目を逸らしたり、あえて暴投したりする間隙を縫って、次の安全地帯へ走りゆく。


背丈より高く生い茂るススキを味方にして、本人は隠れているつもりだろうが身体は丸見えだ。僕は愚鈍にも見失った振りをして近付いてく。息子もニヤッと笑ってワザとゆっくり走って追いかけられるのを待ってたりする。なんだか優しく忖度した世界で、ワンプレーが結局ホームまで1周続くのだ。


もはやボールを当てるだけの鬼ごっこ。それが息子にとって最初の「やきゅう」だった。ボールが見えなくなるまで、陽が沈むまで遊んだ。


さぁ帰ろう。帰って風呂入ろう。沈みつつある夕陽を背に家路に足を向けると息子はこう言った。


「やきゅうって楽しいね!またやろうね!」


そっか野球って楽しいんだ。野球って楽しくて良いんだ。


ずっと忘れてたよ。


ーーーーーー


息子はいま、現役バリバリの高校球児だ。もう僕より7,8センチは背が高い。


小学生後半から中学終わりまで付けていた「身長グラフ日記」を見返すと、レスポンスの良いスポーツカーの性能グラフみたいに跳ね上がってる。


ブカブカでダルダルだったユニフォームの着こなしも今や太ももムチムチ。腹筋なんて韓国俳優みたいにシックス・パックだ。あの頃の締まらない面影は微塵もない。


今も可愛いことには変わりはないが、それを素直に言える年齢でもないな。妻は目をハートにして息子を見てたりするけれど。


「野球選手としてはちょっと細身だな」と指摘すると「これ以上体重を増やしたくないからね」と窓の先にある僕の視線に合わせてニヤリとする。そう言われて窓に映る自分の姿に絶句している僕を見て満足そうに息子は再びシャドーピッチングを続ける。

ユニフォームを初めて着たあの日から息子はこの窓の前でたくさんの見えない打者と対戦し、たくさんの見えないゴロを捌いてきた。悔しくて泣いたこともあったし、レギュラー番号を貰って喜びを噛み締めたこともあった。


「ダラダラするな」と僕から言われていた息子は今、彼自身の憧れだった「キビキビした高校球児」になり、投手として苛烈なレギュラー争いをしている。むしろダラダラしてるのは僕のほうだ。


息子は中学のときに「野球ほど面白いスポーツある?」と言っていた。高校になった今も「野球って楽しいわ」と言う。傍から見ても高校生活をめちゃくちゃ楽しんでいる。


そう育ててくれた当時の笛田エースの指導者や中学の指導者、そして何より「高校野球」という厳しい世界でそんなふうに心を育ててくれている高校の指導者には感謝しかない。


折に触れ、息子があの時に言った「やきゅうって楽しいね。またやろうね」の言葉を思い出す。


僕が学生時代には何が良いのかサッパリ分からなかった「サラダ記念日」。


俵万智さん、今の僕なら分かります。


「野球って楽しいね」と君が言ったから12月6日は野球記念日。


初めてユニフォームを着た日も、初めてバッターボックスに立った日も、初めて三振したり、エラーした日も、すべてが記念日だ。


あの時の息子が言った「また野球やろうね」に僕は救われた。息子と初めて「やきゅう」で遊んだ1日の終わり、「また野球をやりたい」と思っていたのは僕のほうだった。


いま僕は笛田エースの子どもたちに野球を教えさせてもらってる。この子にとって、あの子にとって週末がいつも記念日になったらいいな、と思っている。でもうまく行かないこともある。そのほうが多い。

キミのようにたった一言で誰かの世界を変えるのは僕にはまだ難しそうだ。大人になると純粋でいるのは大変なんだ。

いつかまた息子と2人だけの野球をやりたいな。今度は本気で投げなきゃな。


その時まで家の近くの青少年広場はあの日のままでいてくれるだろうか。


おわり

入団直後の息子(ちょっと不安を残しつつ練習に出発)

6年生の息子(もはや振り返りはしない)


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